About Odissi Dance, Jaganaath, Lord Jaganaath
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オディッシィダンスについて

オディッシィはインドの伝統舞踊の一つです。発祥地はインドの東海岸側に位置するオリッサ州です。
オディッシィは、「マハリ」という神々のために人生を捧げることを選んだ女性たちによって、寺院で踊られていました。

イギリスがインドを支配下においた際、オディッシィダンス、またマハリ制度は禁止されました。しかし、オディッシィの伝統は「ゴティプア」というアクロバティックな動きが主な踊りをする男の子たちに、秘かに伝えられ生き延びました。(ゴティプアは禁止されていなかったので。)インドが独立を成し遂げてから、オディッシィダンスだけではなく、他にも禁止されていた伝統芸術の復興に力が注がれました。(ですので、オディッシィダンスの復興に携わった先生には男性が多いです。)
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現在は、世界中のステージで踊られています。しかし大切な歴史的・文化的背景を反映し、 ステージで踊るときも祭祀(まつり)として見なし、ステージの一角に祭壇を作り、全宇宙の神とされている「ジャガナート」(最後の「ト」はあまり発音されない)を祀ります。踊る側も観る側も、古くから伝わる伝統芸術の世界を垣間見ることが出来ます。

(写真右)
このジャガナートは、私の先生の一人である、ヴィシュヌ・タットヴァ・ダス先生ご自身が描かれたものです。私の免許皆伝の式で頂きました。
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師範・系譜について

Smt. Sarala Dandekar 
サララ・ダンデカー

安佳里の直の師であるサララ先生は、グル・ケルチャラン・モハパトラの弟子であり、グル・ジェーラム・パランチャペの弟子でもあります。シュリ・ヴィシュヌ・タットヴァ・ダスとは兄妹弟子であり、現在マウイのマカワオで教えています。

Darshan Dance Project
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Guru Vishnu Tattva Das
グル・ヴィシュヌ・タットヴァ・ダス

サララ先生と同様、グル・ケルチャラン・モハパトラの弟子であり、グル・ジェーラム・パランチャペの弟子でもあります。現在カリフォルニア州のサンフランシスコで指導されています。マウイに一年に一度来られワークショップを指導してくださっています。

Odissi Vilas
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Guru Jhelum Paranjape
グル・ジェーラム・パランチャペ

子どもの頃から、パランチャペ先生にとって、踊りは彼女の生き方の一つでした。グル・ケルチャラン・モハパトラの高弟(こうてい)の一人。インドのムンバイにあるスミタレイ(Smitalay)というオディッシィダンス学校の創始者であります。

Smitalay
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私はグル・ケルチャラン・モハパトラ大先生にはお会いすることはありませんでした。ですので、彼を私の先生と呼ぶのは分をわきまえないことですので、ここでは私の先生方を生み出してくださった大先生へ敬意の気持ちを込めて、お名前をあげさせて頂きます。

Guru Kelucharan Mohapatra
グル・ケルチャラン・モハパトラ
(1926年1月8日  2004年4月7日)

20世紀にオディッシィダンスが返り咲きするのに、大きく貢献されました。

「本物の踊りとは、分け隔てのない感覚を呼び起こすものである。観ている側が観ている対象と一つであるということを感じられるように。」ー グル・ケルチャラン・モハパトラ
「家」へ帰っていく

オディッシィダンスを観る度に、またはその音楽を聞く度に、私の心は「あぁ、帰ってきた」という気持ちで震えます。

私はインド人ではないのにも、とても「懐かしく」感じるのです。それは私の心の深いところでこだまし、涙が出てきます。この気持ちに突き動かされて、オディッシィダンスを学んできました。

似たような感覚を、皆さんそれぞれのお好きな分野で体験されたことがあるのではないでしょうか。人によっては、それは音楽かもしれません。もしくは植物と接することかもしれません。スポーツかもしれませんし、建築、数学、写真、科学、文学、彫刻かもしれません。皆さんそれぞれのジャンルで、「懐かしく」感じること、もしくは心が惹かれて仕方のないことがあるかと思います。

私は、私の人生が、こうして私の魂と共鳴するものに出会えたことを、心から有り難く思っております。
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いざないよさこいについて

よさこいは「良い世よ来い」のよさこいです。

私の生まれ故郷である、四国の高知のお城下で始まった、一年に一度8月に開かれる踊りのお祭りです。第二次世界大戦後、町の活性化のため、また市民の健康と繁栄を祈願するために始まりました。よさこい祭りは人々を繋げました

こんにち、15,000以上の踊り子たちが、4日間踊り通します。一つのチームには150名まで登録が可能。それぞれのチームが自由に曲や、振り付け、衣装、演出などを作り上げることが出来る自由なお祭りです。

町全体がお祭り会場となり、私は毎年その様子を肌身で感じながら育ちました。
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いざないよさこいの恩師

故・國友須賀(くにともすが)

高知で生まれ育ち、名前に気迫負けしない人生を全うしました。

桐朋学園大学演劇科卒業。劇団四季を経てフリーに。演劇、ミュージカル、ダンサー、TVドラマ、舞台で活躍。

1983年に高知市に
スガジャズダンススタジオを創設しました。

彼女の活動の中でも、「よさこい鳴子踊り」を現代化させた功績は大きいものです。1980年代初頭、高知のよさこい祭りで革新的な振付を行い、次々とその年の最高賞を獲得、前代未聞の大旋風を巻き起こしました。その後も斬新な踊りと溢れるエネルギーを注入し続け、高知県外にも多く足を運び、よさこい祭りが現在のように全国各地で開催される火付け役を担っていきました。

2001年 北海道スタジオをオープン

2004年 香川県にイザナイアカデミーをオープン
2010年 新潟スタジオと九州スタジオ
2011年 イザナイアカデミーを千葉の旭市に移動


2011年6月、旭市にて永眠

現在、彼女の息子二人と長年の教え子たちによってそれぞれのスタジオは経営されています。


須賀先生はよさこいを「いざないよさこい」へと進化させました。彼女の願いは、人々が踊りを通して本当はどのような存在かを思い出すこと、そして次世代のための素晴らしい世界を作るため、一つになることでした。

須賀いざないよさこい連は、日本中、また世界中で踊ってきました。須賀先生はもうこの世に肉体を持って存在しませんが、彼女の願い、彼女の祈りは彼女の育てたダンサーたちによって受け継がれています。

須賀先生は生前、マウイと日本を行き来しており、マウイをこよなく愛していました。


Suga Jazz Dance Studio
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写真:岩崎ひすい

Suga Episode #1


國友須賀先生は2011年の6月1にこの世を去りました。

先生が亡くなった日の朝にみた
のことを、今でも鮮明に覚えています。その夢の中で私はマウイの家で風邪をひいて高熱を出していました。須賀先生から電話があり、私の看病をするためにちょうどマウイ行きの飛行機に乗り込むところだと言うのです。「あかり、先生今から行くきにね!何も心配せんでいい。先生が面倒みちゃうきね!」と言います。熱でぼーっとした頭でも、先生の声が妙に嬉しそうなのがよく伝わってきました。その子どものような無邪気さで、私は電話越しで笑顔になりました。実際先生は亡くなる前にマウイに戻りたいと思っていました。でも戻れるような状況ではなかったので、夢の中の世界ではやっと戻れることになって嬉しかったのだと思います。先生も私も、わざわざ日本からマウイに来てもらって看病してもらうほどのことではないことは分かっていました。ただの風邪ですから。でも夢の中でその嬉しそうな先生に電話越しで「分かった、分かった。ありがとう、先生。じゃ、待ってるからね。」と伝えました。

そして目が覚めました。部屋の窓からは空が割れるような轟の
が鳴っていました。その夢と雷には意味があることを咄嗟に察しました。そして先生が逝ってしまったということを。稲妻とからみ合いながら空に昇っていく龍の背中で、先生が激しくでも厳かに踊っているのが目に見えるようでした。先生は龍が大好きでしたから。そしてメールをチェックしました。虫の知らせは的中で、先生が亡くなったというお知らせがありました。言うまでもなく、先生にもう会えないのだという現実はとても悲しいものでした。泣きながら、「先生来るって言ったじゃん!私の看病してくれるって言ったじゃん。本当に来てよ!」と言いました。そして気づきました。先生はもう来てくれていたということに。私がメールを開く前に、夢の中で会いに来てくれたということに。それからというもの、風邪をひく度に夢の中で聞いた先生の嬉しそうな声と笑顔を思い出します。

私が最初にマウイに来たきっかけは、須賀先生でした。高校生のときに摂食障害と広場恐怖症で辛い思いをしていたので、高校を卒業したらマウイに来て数ヶ月暮らしてみることを提案してくださいました。そのマウイ滞在中見事に摂食障害が治り、私のマウイ生活が始まりました。当初の数ヶ月の滞在予定が、今では16年という月日になりました

須賀先生はたくさんの作品と踊り子たちをこの世に送り出しました。その一人になれたことは、光栄なことです。高校時代の色々と大変だったとき、学校には行けない日でも毎晩のようにスガジャズダンススタジオには通っていました。重いブランケットの下に隠れてしまっている「私」に会いに行っていました。踊っているとき、その私を鏡の中に垣間見ることが出来ました。その「私」はまたすぐに隠れてしまうのですが、一瞬でもちゃんと彼女がそこにいることを確認する度に、私はほっとしていました。私の体を飢えさせている間、踊りは私の魂に栄養を与えてくれていました。須賀先生のおかげで今の私があります。なので、先生の愛に応えられるよう、踊りを通して先生から学んだことを実践していくことが私の願いです。
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上岡安佳里について


はじめまして。

わたくし、上岡安佳里(うえおかあかり)と申します。四国の高知県で生まれ育ち、18才のときに単身でハワイのマウイ島に渡りました。
Akari, baby in a basket

バスケットに入れられているあかり(生後6ヶ月)
この頃から小さいところに入るのが好きでした。

私は小さい頃から踊ることが大好きでした。

私の踊りとの関係は、生まれ故郷高知のよさこい祭りで踊ることの楽しさを知り、始まりました。

7歳で東京に引っ越すことになり、よさこいとはしばらくお別れとなりましたが、東京では
民舞という東北発祥の剣を持って踊る踊りに魅かれ、習い始めました。

高校入学とともにまた高知に戻り、新体操部に所属しました。踊りに対する情熱がさらに大きくなり、高知市のスガジャズダンススタジオで、ジャズ、モダン、バレエ、ヒップホップなどを学びました。

スガジャズダンススタジオの創始者である國友須賀師のもとでいざないよさこいを学び、日本全国各地で演舞させて頂きました。
Akari, yosakoi

地元のお祭りで
(7歳)

2001年にハワイのマウイ島へ渡りました。

2005
年に、マウイにてサララ・ダンデカー師に出会い、師の舞うオディッシィダンスに魅了され、師のもとで学び始めました。

2012
年に免許皆伝を許され、マンチャプラベーシャという式を迎えました。それは正式な訓練を終えたことを意味し、それからも更なる精進に努めることを意味します。

何事においてもそうですが、オディッシィダンスは技術的にとても難しく、上達するには辛抱強い練習の日々が必要とされます。しかし、私のオディッシィダンスへの思いは年々深まるばかりで、2013年にはインドのダンデカー師の先生である、グル・ジェーラム・パランチャペ師のもとで学びました。

私はもともと小学校教員でしたが、今は教員の仕事を一時退き、オディッシィダンスに専念しております。
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免許皆伝の式の間で、「祝福」をダンデカー師から頂いているところ

私にとって、踊りは私を救い、維持し、生き血となったといっても過言ではありません。長年生きてこられた方から見ればまだまだ若造でありますが、今までの短い人生の中で色々と辛いこともありましたが、そんな中、踊りがいつも私の足を地につけてくれました。小学校高学年の頃はいじめを経験しました。高校生の頃は摂食障害と対人恐怖症がありました。それらを乗り越えられたのも、踊りが私の人生にあってくれたおかげです。私が私でいられる場所を踊りはいつも提供してくれました。

私の学歴や職歴については、
こちらのページをご覧ください。
オディッシィダンスとあかり

私が初めてオディッシィダンスと出会ったのは、2005年にサララ・ダンデカー師が踊っていたのを観たときです。彼女の踊りに目が釘付けになりました。うっとりとその美しさに虜になったものの、まさか私がその踊りに挑戦してみるとは思いもしませんでした。目の動き、上半身の流動的な動き、リズム感溢れる足の動き、それに加えてムドラという手で結ぶ印・・・それら全てを同時にこなしている踊りはとても複雑に見えたからです。(オディッシィダンスについては、こちらをご覧ください。)

しかし、ダンデカー師のフレンドリーな招待を受けて、「一度やってみて損はなし」と思い、師のクラスに出かけました。そしてみるみると「はまって」いったのでした。オディッシィダンスの捕らえ所の無い複雑さが、逆に私を魅了しました。最初の数ヶ月はまるで
新しい言語を学んでいるような感覚でした。私の体は、私の脳が伝えようとしている「伝達事項」を理解することが出来ませんでした。脳と体はちぐはぐでした。そのちぐはぐさの向こう側へ行きたくて、とにかく通いました。しかし、その興味心だけでここまで続けてきたわけではありませんでした

私がオディッシィダンスにそこまで魅了された背景には、オディッシィダンスの
確固とした精神性がありました。それは私の魂と共鳴しました。英語を学ぶことで、英語を話す人とコミュニケーションを取れるようになったように、オディッシィダンスを学ぶことで、神聖なものとコミュニケーションをとれるようになるように思いました。

2013年には、インドのダンデカー師の先生であるグル・ジェーラム・パランチャペ師のもとで学ばさせてもらいました。その一ヶ月の滞在は、オディッシィダンスをもっと学びたいと思う気持ちをより強くしました。

インドではパランチャペ師と、先輩弟子の方々と一緒に舞台で踊らせて頂くという有り難い機会を頂きました。パランチャペ師が単独である演目を踊っているところを、舞台袖から観ていたとき、初めてダンデカー師の踊りを観たときのように鳥肌が立ち、また涙している自分がいました。「ダメだ、泣いたらメイクが取れる。まだもう一曲踊らないといけなんだから」と思っても湧き出て来るものは抑えきれず、仕方ないので涙が頬を伝わずに落ちるよう、顔面を床に平行にしたりしていました。言葉に出来ないけれど胸を突き動かす何かがあったのでした。「あぁ、何て美しいのだろう」。踊りが美しいのは勿論のこと、長い歴史を持った芸術を継承をしていくことを心に決め、オディッシィダンスに生涯をかけている一人の魂が全身全霊で踊っているその姿勢が、美しかったのです。そしてその恩恵にあずかっている希少なこの機会と巡り会わせを心から有り難く思う涙でもありました。「
あぁ、私はこの芸術を本当に学びたいのだなぁ」と改めて思った瞬間でもありました。
よさこい踊りとあかり

私とよさこい踊りの最初の対面は、私が母のお腹の中にいた頃だと言えるでしょう。お祭りの音楽が聞こえてくると、お腹にいた私は活発に動いたそうです。よさこい祭りは私の故郷の高知の毎年夏に行われるお祭りです。(よさこいについてはこちらのページをご覧ください。)子どもの頃、お祭りの音楽が聞こえてくる度に胸が高鳴り、いてもたってもいられなくなったのを覚えています。

7歳のときに父の仕事の関係で東京に引っ越しましたので、しばらくよさこいからは退くこととなりました。15歳のときにまた高知に戻り、そのときに
スガジャズダンススタジオの創始者であり、現代よさこいの生みの親と言われる故・國友須賀に出会いました。須賀先生はとても優秀なダンスインストラクター達を生み出しておりました。その素晴らしい先生たちのレッスンを私は受けることが出来ました。

須賀先生は忙しい方でした。全国各地を駆け回り、振り付けや指導、また様々なお祭りの発起を手伝っておりました。地域の人々を繋げ、地域を活性化するのに
よさこいは大変素晴らしいツールでした。

そのお陰で、須賀先生の教え子たちは
日本各地、また世界でもよさこい踊りを披露する機会に恵まれました。夜遅くにバスに乗り込み、翌朝目的地に着いて昼間踊り、夜遅くに高知に戻ってくる、もしくは次の目的地へ移動するという大変だけど楽しい日々を送ったこともよく覚えています。夏は特に忙しかったです。何日も家を留守にすることもありました。

またその頃、高知市内の劇場での観光客のためのよさこい披露や、ホテルのイベントなどで呼んで頂き踊るということも頻繁にありました。学校に行く前に衣装やメイク道具など一式が入ったかばんを用意し、授業が終わると急いでホテルに向かうということもありました。高校生でしたので学業第一でしたが、時間が許す限り踊っていました。

そのように須賀先生のおかげで人様の前で踊る機会をふんだんに頂いたことは、財産だと思っています。先生から、また先輩方から
プロとして踊るということはどういうことか、また踊りを通して喜びを分かち合うことがどういうことかを学ばせてもらいました。

Credits to Photographers

Photo by Richard Marks

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deacon macmillan, Puamelia Photo, puameliaphoto.com, maui photographer

Photo by Erin Dorothy

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Recital 2023